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アリストテレス考察2

次にアリストテレスは、さまざまな技術や行為にはすべて目的があり、それらを統括する最高目的に、従属しているという考えを示しているが、私はどうも納得しきれない。アインシュタインは、人間は、孤独な存在であるのと同時に、社会的な存在であるという考えを示しており、人間を捉えるアリストテレスとアインシュタイン両者の考えは共通しているといえるのだが、行為や手段に対する目的に対しては、よく分からないなどと非常に漠然としていて曖昧なものである。

 

もしくは、「人間とは、わたしたちが宇と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。思考とは、それ自体が目的である。音楽もそうです。」という考えから分かるように、行為それ自体が目的で、それらを統括する最高目的などというものの存在は肯定していない。私もどちらかといえばアインシュタインの考えに近く、確かに何か行為する時、こうした方が良い、この方が幸福に近づけると無意識に力が働いているとはいえるかもしれないが、それが行為それ自体を統括している目的であるなどとは考えにくい。

 

また、最高目的、最高善を幸福と捉えているが、生と死を見た場合はどうだろうか。生まれるという行為が幸福と結びつくとは必ずしもいえないと思うし、死ぬという行為が幸福かどうかは誰も分からないし、実際、死は恐怖でもある。とするとアリストテレスの最高目的が幸福とはいいきれない面があるのではないかと思う。この事に対してアインシュタインは、幸福を人生の目的などと思った事はなく、それらを「豚飼いの理想」とまで呼んでいる。釈迦の言葉に「少欲知足」という言葉がある。まさにそうだと思う。

 

アリストテレスも「幸福はみずから足れりとする人のものである。」と述べ、また、「賢者は快楽を求めずし苦痛なきを求める。」という言葉からも分かるように、人間は間接的には幸福を求めているかもしれないが、表面上は不幸でない事を最高善として読み取る事も可能ではないか。まず目標とすべき最高善は、不幸でない事、こう定義できる。善については「卓越性に即しての魂の活動」とし、この活動は理性の活動であるといえる。しかし幸せを考えた場合、この理性を取った方が幸福になる場合と、欲求を抑えずして得た事が幸福となる場合があり、これも一概には規定できないのではないかと思う。人間が個人的存在のみであったなら、欲求の赴くまま行動すればよいのかもしれない。しかし同時に社会的存在であるが故、理性というものもなくてはならないものである。最高善が幸福で、政治がその最高目的と規定している点も、現代の日本人にとっては、政治を最高目的と規定するのは極端過ぎないかと感じる。アインシュタインにとって、国家は人のために存在するものであって、国家のために人が存在しているのではない。国や政治があるのは、そこに住む市民の生活をより良く、いかに不幸でない、もしくは幸福な状態にするための一端だと思う。それを、国や政治のために市民が存在するなどと規定するのは大きな間違いだ。アリストテレスの考えは、現代にも適応できる問題である。

 

しかし結局のところ、アリストテレスが考える「よりよく生きる」ために必要なものと、現代人が考える「よりよく生きる」ために必要なものは異なるようである。

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