「活動」~知と行為の分離計画は実現可能か~
「始める」ことと「支配する」こととは、元々同一の意味であった。これは偶然的なものでも、誰かが意図した事でも無い。archeinという単語の派生がそうさせたとしか言い様が無く、今までもこれからも揺るぎようのない事実である。私が『人間の条件』を多少なりとも読解しているからこそ、この事実に気付いたプラトンや、そこから議論を発展させたアーレントに感心を示す事が出来る。勿論、普段言葉の語源を辿るなどという事は行わないため、「始める」ことと「支配する」ことが語源を同一にしていたのは初耳であった。
続きを読むハイデガーと死の問題~ホッブズにおける「自然状態イコール戦争状態である」という定義の考察~
ハイデガーの唱えた可能性としての死の問題は、ホッブズ『リヴァイアサン』においても問題となっている事は明白であろう。ハイデガーの可能性としての死の問題を前提条件に置きつつ、今回はホッブズによって提案された自然状態イコール戦争状態であるという、一見耳を疑うような等置の考察ないし発展を試みたいと思う。
続きを読む日本語文化論<文献と方言について>
文献と方言については次の4つのパターンがある。まず一つ目は、方言と文献が一致する場合で、方言の分布から推定される語の新古関係が、文献における出現順序と一致する。二つ目は方言の分布からは分からない事が文献から判明する場合。三つ目として挙げられるのが、文献からは分からない事が方言の分布から判明する場合で、最後の四つ目が方言と文献が矛盾する場合、すなわち方言の分布から推定した語の新古関係が、文献における出現順序と逆になる場合である。
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アリストテレス考察2
次にアリストテレスは、さまざまな技術や行為にはすべて目的があり、それらを統括する最高目的に、従属しているという考えを示しているが、私はどうも納得しきれない。アインシュタインは、人間は、孤独な存在であるのと同時に、社会的な存在であるという考えを示しており、人間を捉えるアリストテレスとアインシュタイン両者の考えは共通しているといえるのだが、行為や手段に対する目的に対しては、よく分からないなどと非常に漠然としていて曖昧なものである。
続きを読む『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』3
話は変わるが、第一章で学生Bは夢についての二つの意味説明を行っている。二つ目の、「この現実そのものがもっと巨大な夢であったという可能性において、死んだときにこの夢から覚めることになる」と述べられているが、ほんとうにそうであろうか。私はそうは思わない。
続きを読む『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』2
序章の途中にビュリダンのロバの譬えが出てきたが、それについて考えてみた。どちらか一方を選ぶ根拠を持てずに理性的なロバは飢え死にしてしまった。しかし本当にロバが理性的であったなら、飢え死にする前にどちらかを選んで食べている、ないしは両方を食べているのではないだろうか。あくまで譬え話であるのは分かっているが、それは置いておき考察を続けたい。
人間の場合を考えてみても、人間は理性的であるといえるだろう。そして理性的であるからこそ、同じ状況にあったなら、飢え死にするような事はないはずだ。では我々人間は何を食べるか、どちらを食べるか決める際、何を考え、何を基準に選び決めているのであろうか。そしてその根拠は何でどこからきているのだろうか。「何か」は分からなくても、「何か」を根拠として決めている事は確かであると思う。
そしてその事を理由として、やはり私が私である事も何らかの根拠があるはずだと考える。テキストにおいては<神>だとか無根拠な選択が実在したのであれば、などと断定的に仮定されてしまっているが、私は「何か」とは言えないが、意味や根拠は必ずあるはずである。
続きを読む『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』1
デカルトにおける「われ思う、ゆえに、われあり」の懐疑については、だいぶ頭を悩ませた記憶がある。大雑把に言えば、「私」という存在そのものについてである。私には多くの性質、特徴があり、それは誰しも同じ事だ。髪が黒い、背が高い、目が大きい等々の身体的特徴と、積極性がある、頑固、優しい等の精神的特徴の両方を兼ね揃えて「私」というものは存在している。
しかし、私の自覚している自分と、私の両親が思っている「私」は異なるであろうし、友人から見た「私」もそれぞれによって異なるのである。どれがほんとうの私なのか。私とは一体何を基準にして私となり存在しているのだろうかという事が疑問となった。
続きを読むプラトン国家2
また、これと同じ事が第四巻の十九章445Aでもいえると思う。
ソクラテスらは、この議論をする事をとてもばかげた事としているが…。他人に知られていようといまいと、正しいことを行うことは得であると思うし、懲らしめを受けずにすまされようとも、やはり不正な行いをしたら、それは損になると思う。なぜなら、他の誰が気づこうとも、気づかなくとも自分という存在だけは気づいているのだから。正しいことをしたら気持ちがいいし、不正な行いをしたら、後味が悪いのは自分である。これは何だかデカルトのcogito ergo sum 我思うゆえに我ありの思想と似通っている気がした。どういう事かというと、不正な行いをしたという事が、誰にも気づかれていなくとも、その行いをしたという事を考える我は存在する。そしてこのような罪悪感や罪の意識は消える事はないであろう。
だからそれを思考する我は、疑っても残り、その存在は疑いえない唯一のものである。何をしても、どんな事をしても、知るのは自分が一番初めで、自分だけは絶対にその事を知っているし、それを忘れる事もない。他人に知られようといまいと、正しいことをするのは得で、不正なことをするのは損であるといえよう。
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「ストア派とエピクロス派における偶然性の問題~新現象学的破壊」
九鬼周造がハイデガーとの出会いによって偶然性の問題への着想をより深めたのは言うまでもない。偶然という概念の意味を追い求め、そこからさまざまな発見や破壊を行った九鬼だが、今回、同種結合といった形で必然性や偶然性を説いたストア派とエピクロス派における必然-偶然性の哲学を論じていきたいと思う。
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ピタゴラス
(1)ピタゴラス派の人々について
私は以前から輪廻転生や前世、生まれ変わりや魂などに興味、関心を強く持っていて、大学の勉強とは別に学んでいる。たとえば何かの病気の原因となった心の傷や恐怖を探り、取り除くため、退行催眠によってその原因のある時期の記憶に戻る。そこでたいていの人は幼少期の記憶に戻るのだが、もっと昔の記憶、すなわち前世、過去世に戻るという事が起こりかねないと思うのである。
ピタゴラス派の人々に興味を持ったのは、彼らもまた輪廻転生について語っているという事。またそんな彼らが、それとは全く別の事象と思われる幾何学や音階論などについても言及しているという点に非常に興味を惹かれたからである。
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デカルト『省察 情念論』
デカルトの誤謬論。まずはこれについて考察していきたいと思う。私は、神によって与えられた能力を正しく用い、判断をしている間は誤ることがない。なぜなら神は私を欺かないから。しかし、私が誤り得るのはなぜか。ここに問題がある。私が誤り得る理由としては、私を神と無との中間者として捉え、無である存在において判断を下すためとする。そしてその誤謬を否定ではなく、認識の欠如としている。デカルトは認識のためには悟性と意志が必要であるとし、悟性は判断を下す材料であって、本来の意味での誤謬は見いだされないと述べている。意志の方は無限であるために、誤謬に陥ってしまうというのである。そしてその誤謬を回避するためには、何が真であるかをよく認知していない間は、判断を下す事を控える事が重要である。これがデカルトの誤謬に対する考えである。
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「『大学・中庸』考察」2
次は第二章一節にいこう。自分をごまかさない事、例えば、悪い事は悪いとし、善い事は善いとして追求する。これが自分の意念を誠実にする事だとある。これは当たり前の事である。しかし現代問題となっているのは、何が悪く、何が正しいかの判断をしにくくなっているといった事ではないか。
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