読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる


スポンサーリンク


『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』2

序章の途中にビュリダンのロバの譬えが出てきたが、それについて考えてみた。どちらか一方を選ぶ根拠を持てずに理性的なロバは飢え死にしてしまった。しかし本当にロバが理性的であったなら、飢え死にする前にどちらかを選んで食べている、ないしは両方を食べているのではないだろうか。あくまで譬え話であるのは分かっているが、それは置いておき考察を続けたい。

 

人間の場合を考えてみても、人間は理性的であるといえるだろう。そして理性的であるからこそ、同じ状況にあったなら、飢え死にするような事はないはずだ。では我々人間は何を食べるか、どちらを食べるか決める際、何を考え、何を基準に選び決めているのであろうか。そしてその根拠は何でどこからきているのだろうか。「何か」は分からなくても、「何か」を根拠として決めている事は確かであると思う。

 

そしてその事を理由として、やはり私が私である事も何らかの根拠があるはずだと考える。テキストにおいては<神>だとか無根拠な選択が実在したのであれば、などと断定的に仮定されてしまっているが、私は「何か」とは言えないが、意味や根拠は必ずあるはずである。

 

記憶という概念もテキストの途中に出てきたが、私はこの記憶という概念が、このテキストにおいて重要な役割を果たすのではないかと予感している。何でかと問われたら、言語学や心理学の講義においても記憶という概念は重要視され、認知の問題に記憶は不可欠だという重要性を認識しているからであると直接的に根拠を挙げて説明する事はできないが、これもまた最後の結論が楽しみな一要因である。ある人がその人足らしめる所以が記憶であるならば、自分が誰かを認識できないような記憶喪失の人の場合はどういう説明がされようか。その人が、私である根拠はその人自身には存在しないであろう。仮にその人の名をジャックと名付けよう。ジャックは存在するが、ジャックの中にジャックは存在しない。この場合の「ジャックは存在するが」というのは、周りが見て存在すると判断した場合である。他人が彼はジャックであるという根拠を与える事によって、ジャックは自分がジャックであると認識、自覚する。他が与える作用が存在しなければ、自分がジャックであると自覚しえなかった。他人の記憶が、その人とは別の人の記憶に根拠を与え、その根拠によって事実が後から根拠を与えられるという事もあるのだ。つまり私が私である根拠の一つに記憶という概念、その中でも他人による記憶の概念も理由となるという事だ。

 

また、テキストで言う、「純化された死の恐怖」に記憶喪失だとか植物人間だとか二重人格だとかといった現実に起こっている出来事を当てはめて考える事は可能だと思う。純化された死を消滅と称して述べられているが、そうであれば、上記に挙げたような人々はすでにもう消滅してしまっているのであろうか。少なくとも私の解釈が正しいのであれば、そういう事になろう。そして例えば記憶喪失から記憶を取り戻した場合の、その人は一体誰で、記憶を失っていた間は誰なのであろうか。一度消滅してしまったとすれば、ある種の生まれ変わりとでもいうのであろうか。いやいやそんなはずはない。すべてがその人自身なのである。自身によって存在根拠を与えている間も、他人によって根拠を与えられた間も。そして消滅などはしておらず、その人は存在し続けていたはずである。この議論によって、私を私足らしめる存在根拠は、私の中および外からも与える事は明白となったであろう。

 

次に、デカルトの懐疑は、思考する私の存在だけが、疑いえないものとして残る事を問題としているが、「思考する」という意味解釈は個々人によって異なるわけで、それを一人ひとりが勝手に「思考している」として考えているに過ぎないのではないか。また、ある人の意味解釈において思考していても、ある人にとってそれは思考している事にはならないという事が、完全に起こり得ないといえるであろうか。個々人が「それ」に意味を、記号、言葉に意味を与えているからこそ、すべては成立している。そしてその意味を与えるという行為こそ、物事をその根拠足らしめている理由であると考える。前の段落で言った事と合わせると、私を私とする存在根拠は、私自身の中および外から与える事によって成り立つ。そしてその中および外から何をと聞かれれば、意味を与える事により存在根拠となる。解釈はそれぞれに異なるからこそ、多様な面を持った私は存在するのである。

 

第一章において意味に関する欺きの話が出てくるが、悪霊を全能であると仮定するのであれば、これはもっともだと思う。しかし別に全能の悪霊を想定しなくとも、意味を欺きとして捉えなくとも、方言という名の欺きが存在する。東京の多摩地方では、カマキリをトカゲといい、トカゲをカマキリと言う人がいる。我々の常識からいったら、カマキリかカマキリで、トカゲはトカゲだが、多摩地方においては意味が逆になっており、地域によって同じ言葉でも意味しているものは違うのである。すなわち概念そのものの意味が異なっている。そしてこれは誤謬でも欺きでも何でもなく、事実として説明できる事柄なのだ。方言を用いれば、さまざまな意味の異なりを見出す事が出来る。テキストでは悪霊が概念そのものを騙した場合を仮定しているが、そんな現実離れした事で意味しなくとも、身近な例として言えるのである。意味解釈は人それぞれ異なり、大きくは地域によっても異なるのである。

 

広告を非表示にする
このホームページに関するお問合せは下記へお願いします。
Eメール:philosophy_diary@yahoo.co.jp