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 「『大学・中庸』考察」1

『大学・中庸』は儒教思想を根本とし、書かれた書物である。「修己治人」、すなわち、己を修める道徳説と、人を治める政治説を中心思想とするのが儒教である。そしてこの思想を分かりやすく理解する事ができるのが、『大学』である。この道徳と政治の両方に目を向けた哲学者がかつていた。アリストテレスやプラトンがそれである。この事については後ほど詳しく解説する事にしよう。また、『中庸』は「中庸」と「誠」とを解くもので、こちらもアリストテレスが『二コマコス倫理学』で言及しているという点が興味深い。以下では、『大学・中庸』を読み進め、私の意見を論じるとともに、アリストテレスやプラトンの思想と比較可能なところは比べていこうと思う。また、私が興味のある禅とも比較できる点があれば、それも同時に行っていきたいと思う。

 

 

アリストテレスはEthicaとPoliticaの全体をpolitikêとして捉えている。そしてpolitikêこそ人間の学であるのだ。注意すべきはEthicaとPoliticaが独立しているわけではないという点である。人間の学が目指すは、最高目的、つまり人間の善であり、人間の善はそれ自身において満たされるものでなければならないという。そしてこの人間の善を幸福として定義づけている。儒教が道徳説と政治説を軸としている事と、アリストテレスのいう人間の学が倫理と政治によって成立しているという考えにとても似通ったものを感じた。また、『大学』が問題としているのは「大学教育の理想的なあり方とはどうあるべきか」というもので、これはプラトンの『国家』でも、その狙いが「大学教育」か「国」かの違いだけで、ほぼ同じ事を問題としていると読み取れる。もちろん『国家』では「正義とは何であるか」という事も問題ではあるが。大学教育の理想的なあり方を『大学』では「明徳を明らかにする」「民を親しませる」「至善に止まる」という実践項目で明確に表されている。一方、『国家』では、理想的な国のあり方は哲人統治によって成立すると結論づけられているが、その実現は至難であるとされた。あとの議論については、私にとって非常に不明確であり理解が難しかったため、『国家』においてその答えは『大学』と比較し、曖昧に思われる。禅はインドから中国に伝えられたのが発端で広まった。最初に伝えたのは菩提達摩という人物である。理想の大学教育や国家設立などについて語るより以前に、唐代の禅僧の言葉に次のようなものがある。「莫妄想」。考える必要のない事は考えるなという意味でもありますが、理想の大学教育や国家実現が考える必要のない事だと取られては困るので補足しておくと、それはまた、明日の事まで思い悩むなといった感じで、「今」を大事にしろという事です。仏教の開祖である釈迦も、「まだやって来ない未来の事など誰にも分からない。ならば、ただ今日なすべき事を、熱心になすだけである」と言っている。禅においては理想などを思い描くよりも、今を優先させるため、先の二つの問題定義と似た問題は見当たらない。

それでは、いよいよ本文に入っていく事にしよう。全てとはいかないが、いくつか私の考えを述べていきたいと思う。まずは初め、第一章の一節において、物事には初めと終わりがあり、それをわきまえ、どう優先順位を付ければいいかが分かるならば、ほぼ正しい道を得たという事になるとあるが、物事の初めと終わりは何を持って初めとするか、終わりとするかは個人によって異なるし、物事を連続的に見れば、初めも終わりもないと思う。そもそも、ここでは最高禅の境地にふみ止まる事を目標にしているのであるから、余計に物事は断続的ではなく、非断続的に見るべきだと思う。また、物事の優先順位を付けられたとしても、正しい道を果たして得られるのだろうか。ほぼ正しい道ではあるが。私もよく勉強と遊びとアルバイトや寮の当番などが、いっぺんに来ると優先順位を考える。たいていの場合、遊びよりも勉強を優先的に順序立てはするが、目標とするところまで終わらなくとも時間が来てしまえば、遊びに出かけてしまったり、勉強する時間を取っても、考え事をして何もしなかったりという事がよくある。それでは結局、優先順位を付けられても、それを行動し、行わなかったら、全く意味を成さないと強く思う。これで、「至善に止まる」と言い切ってしまうのはいかがなものであろう。言うなれば、物事に正しい優先順位を立て、それを行動に移し終えたなら、ほぼ正しい道を得たといえるのではないか。ここでもほぼと付けたのは、正しい道を得たかどうかは、その時すぐ分かるものではなく、後に振り返って分かるものであるから。

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