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「活動」~知と行為の分離計画は実現可能か~

哲学

「始める」ことと「支配する」こととは、元々同一の意味であった。これは偶然的なものでも、誰かが意図した事でも無い。archeinという単語の派生がそうさせたとしか言い様が無く、今までもこれからも揺るぎようのない事実である。私が『人間の条件』を多少なりとも読解しているからこそ、この事実に気付いたプラトンや、そこから議論を発展させたアーレントに感心を示す事が出来る。勿論、普段言葉の語源を辿るなどという事は行わないため、「始める」ことと「支配する」ことが語源を同一にしていたのは初耳であった。

 

しかし、その語源的発祥の事実を知った上であっても、プラトンやアーレントの議論を知らない人たちにとってみれば、さっぱり意味不明な事である。何故「始める」ことと「支配する」ことが意味を同じくしていたのか。この事態は一体何であろう。現代において理解している言葉の意味と、古代から使われていた意味に差異があるのは自然な事だし、プラトンやアーレントのいう言葉の意味が絶対的に正しいという訳ではないが、それでも語源に基づいた解釈を行っているという事は大きな強みとなるであろう。いつから支配概念から「始まり」の要素が消失してしまったのだろうか。「始める」と「支配する」ことの意味の面から考察を行えば、疑問は尽きる事がない。今回、『人間の条件』第5章の考察において、現代使用されている意味に留意しつつ、支配概念に注目し、プラトンの計画について実現可能かの検討を行いたいと思っている。

 

 まず私は、自分自身が理解している「始める」ことと「支配」することの意味を知るため、また一般的に通用されている意味を知るためにも、岩波国語辞典で二単語の意味を引いてみる事にした。「始める」とは「物事を新たに行う。今までの、していない状態から、する状態に移すこと」、「支配」とは「ある者が自分の意志・命令で相手の行為やあり方を規定・束縛すること」と定義づけられている。私たち人間の第一の始まりは「誕生」にある。そこからすべてが始まる。何とも素晴らしいと思ったのは、辞書にも「始める」ことを「物事を新たに始める」、そう、「新たに」と明記されていた点である。誕生以降の始まりは、すべて第二の始まりである。それ故「始まり」解釈は現代にもアーレントにも相通じていると感じた。話を元に戻し、次の段落ではプラトンの計画が実現可能か否かについて論じていきたいと思う。

 

 プラトンの計画における支配とは、知と行為を分離させた事に特徴がある。行為者である市民は、知を持ち活動はしない者からの命を受け、一定の役割なるものを保持した状態で行為する。そしてそのような市民は一人の人間であるかのように活動を行うというのが、あまりにも簡潔ではあるがプラトンの計画である。しかし、私には完全なる知と行為の分断は実現可能なのか些か疑問でならない。いくら活字で何を述べようと、どんなに革新的試みを提案したとしても、これを実際、実行に移し長期的に実現させた実績があるわけでもないのだ。何とでも言う事は出来る。やってみなければ分からなかったという事は必ず出てくるわけであるし。

 

人間誰しも感情を持ち合わせている。行為する者にも知は存在する。その事実は消す事が出来ない。知が存在するからこそ行為する事も可能なのだ。行うべきことを知ることと、それを行うことは異なる。確かに行うべき事を知った上で、それでも行為しない事は出来るであろう。しかし行う者らも不満が皆無の状態で長くいれるわけはないと思うのである。プラトンの計画も、結局は僭主政治と同じような運命を辿るのではなかろうか。行為者がロボットであるなら話は別だし、人間がそのような役割を果たす事が出来るというならば話は別だ。

 

しかしそれが対人である限り、正直無理難題、理想論のように思えてしまう。人間は皆、最低限同じ条件の下で生きている。もちろんプラトンの言う「支配」が「相手の行為やあり方を規定・束縛すること」でないのは分かるのだが、人間が「思考」し「活動」する生きものである限り、プラトンの知と行為とを分離した支配計画も実現不可能ではなかろうかというのが、私なりの結論である。

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