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ハイデガーと死の問題~ホッブズにおける「自然状態イコール戦争状態である」という定義の考察~

哲学

ハイデガーの唱えた可能性としての死の問題は、ホッブズ『リヴァイアサン』においても問題となっている事は明白であろう。ハイデガーの可能性としての死の問題を前提条件に置きつつ、今回はホッブズによって提案された自然状態イコール戦争状態であるという、一見耳を疑うような等置の考察ないし発展を試みたいと思う。

 

 「自然状態は戦争状態である」というホッブズの説に、私は大よそ賛成である。それにも増して、世間一般からすれば異論と思われるような説を考え出し、提案した事に関心を寄せている限りである。初めは私もこの自然平等説に驚嘆し、違和感を感じ、異論を述べようとしたのは事実である。しかし、ホッブズの言っている事は現状を見据えた意見なのではないかという考えに至ったのである。自然状態や戦争状態とは何なのかを考えるにあたり、自然平等論は単にそれだけの問題ではなく、政治問題だとか政治権力の問題と深く関係している事に気が付いた。そしてその問題を、「神」と結び付けず説いている事により、非常に明確な形で現代にも通ずる課題を残してくれていると感じている。実際のところはどうなのか分からないが、私の知る限りにおいて、ホッブズが無神論者であった事が、私や日本人に「神」とは引き離して思考する事ができる馴染み深さを与えているのであろうと思う。

 

 ホッブズのいう自然状態とは、法や制度などの共通の定め事が存在しない、ある意味では自由な無法地帯ともいうべき、自分の身は自分で守るといったような状態を指していると考えられる。そしてそのような状態を戦争状態だという。ここで言われている戦争状態とは、戦争が行われている状態だけを意味するのではなく、戦争を行いそうな状況にある状態をも指し示している。

 

しかしここで腑に落ちない点がある。なぜ現在法が制定され、社会状態が保たれているであろうこの世の中に戦争というものが存在し、そしてある地域ではいつ起こるか分からない戦争に脅えるといった状況にあるのか。この状況をホッブズはどう説明するのか。私は、全世界に共通する絶対的な法や存在者が存在しない事が原因だと考えている。世界には国際連合といった組織が存在する。しかし結局は国々の集まりであり、十分な機能を果たしていないのが現状であろう。法が法として、組織が組織としての本来の役割りを果たしていないからこそ、現代においても戦争は起こり得る。もしかすると法は戦争回避の一時的な口約束に過ぎないのかもしれないが。ともかくこのような状態の現代は、ホッブズのいう自然状態なのかもしれないし、絶対に戦争は起こらないと言い切る事が出来ない限り、勿論言い切る事は出来ないと思うが、自然状態は今までずっと続いているのかもしれないと思う。そして最も恐ろしい事は、戦争が起こる事ではなく、このような状態に誰も気付いていない事である。

 

しかし、例外として一つだけ考えられるのが、縄文時代に生きた人々の状況である。私が高校の時に日本史で少し触れただけであるため、詳しくは知らないのだが、縄文人には人と争うといった概念は存在しなかったのだという。また階級だとか身分の差というものも存在しなかった。そのため村落であるとかの集団は、皆で協力し生計を立てて暮らしていた。しかし縄文時代であるか弥生時代に入ってからかは不明だが、確かお米の収穫高が原因で、頭首争いなどの諍いが起きたというのだ。そこから争い、人の上に立つ事など身分の差も発生し、今の日本に至る。もう我々現代人には争う、競うといった概念が存在してしまっている以上、それを失くし無いものとする事は不可能であろう。現代においてでも、未開社会の少数民族には縄文時代のような社会が存在するのかもしれないが、とにかくそのような概念それ自体が存在しない状況でなら、戦争は起こらないし、戦争状態ではないとの言い切りが可能となる。そんな例外も存在した事は忘れずにいたい。

 

話が前後するのかもしれないが、講義で扱ったプリントにもあったが、ホッブズの言った「人間はうまれつき平等である」という人間自然平等説に対し、私はこう考える。「人間は生まれながらにして不平等である。そのため平等である」と。付け加えておくが、これはアリストテレスの言ったような自然的不平等説ではない。ホッブズは、皆人間は似たり寄ったで、自然状態においては誰しも平等であるというが、そうではないと思う。戦争の原因というのは、人間不平等であるにも関わらず、なのにそれを忘れてか知らず平等を求めるからこそ、原因となっているのだと思う。差があって当たり前で、だからこそ努力が報われた時の嬉しさを噛み締める事もできる。

 

たとえばある人々が平等を求め、結果として全員が平等になったとしよう。実際その状況を想像しただけでも恐ろしい。共産主義もそれに多少含む事は可能であると思うが、ロボットがいるようなものではないか。それこそ似たり寄ったりの状態だ。十人十色の状況を我々は早く受け入れ納得すべきなのである。思い違いの平等を求めるからこそ、人を殺すという事が起こってしまう。我々は誰でも人を殺す事ができ、そしてまた殺される可能性に満ちて生きている。

 

しかしおかしな事にそのような状況にも関わらず、我々は平然と暮らしている事が分かる。これはなぜであろう。その可能性の恐怖を多少は感じ、理解しつつも、どうしようもできないという諦めからなのか、もしくは在りもしない何かの安心感からなのではないだろうか。皆どこかの国の紛争地域に行くには死ぬ覚悟で行くであろうし、知らない土地や地域に行くとなると少なからず警戒心を持つであろう。つまり我々はここに生きる事に慣れてしまっているのだ。変な安心感から麻痺し、警戒心が薄れているからこそ、この自然状態に気付かずにいる。だからこそ、突然のテロなどに敏感に反応し、そこで改めて自身の身の危険を察知する。勿論テロという行為には敏感に反応すべきであるとは思うが、自らの死をそこで改めて察知するからこその敏感な反応なのかもしれないと思う。我々は必ず死ぬ。その事と向き合わず、死から離れて生きているからこそ、ホッブズの「自然状態イコール戦争状態」の説にシコリを感じ、どうも納得いかないといった状況に陥っているのではないか。もっと我々は死を身近に感じ、人に殺される可能性の中で生きているという事を自覚すべきなのだ。

 

そういった意味では「死」というものに向き合ったハイデガーやホッブズを称えたいと思う。テロはあってはならない行為であるが、それでも我々は「何か」をきっかけとして、もっと人間一人ひとりが「死すべき存在」である事を、意識しなければならないのではないだろうか。

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