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『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』3

話は変わるが、第一章で学生Bは夢についての二つの意味説明を行っている。二つ目の、「この現実そのものがもっと巨大な夢であったという可能性において、死んだときにこの夢から覚めることになる」と述べられているが、ほんとうにそうであろうか。私はそうは思わない。

 

死んだのであれば、夢から覚めたなどと自覚する事はできないであろうし、そう自覚した人が万一いたと仮定しても、その人は死んでいるのであるから、生きている私たちがその事を知る術はない。また死んだときに夢から覚めたと自覚した場合のその後の世界とは一体何であろう。自覚してすぐに意識は失われるのか。意識が続くとすれば、その後の世界は現実なのか。そしてまたその世界が夢であるという可能性はないのであろうか、などと不可解な点を挙げれば切りがない。二つ目の夢が「この現実そのものがもっと巨大な夢であった」という可能性はあり得るかもしれないとは思うが、しかし、「死んだときにこの夢から覚めることになる」という解釈はおかしいと思う。この夢から死んだときに覚める事はないのだ。つまり「この現実そのものがもっと巨大な夢であった」といっても、夢であったと気付くかどうかは別問題となるため、その夢に関する二つ目の意味説明自体成り立たないと考える。もちろん夢かもしれないと疑う事は可能かもしれないが。

最後に、言語ゲームの話から出てきた「これ」とか「私」の指す世界について私の考えを述べたいと思う。思うに、世界があるからこそ「私」は存在するのだが、「私」がいなければ「これ」は認識し得ない。しかし「これ」を認識する事がすなわち世界を認識する事となる。学生Jは、私はこれの中の一登場人物に過ぎないといっているが、私はそうは思わない。私は「これ」と「世界」を区別して考え、「世界」は誰しもに共通するものと考え、「これ」においては私が存在してこそ認識しえるものであると考えたい。しかし他人と同じ「これ」は存在しない。自分が見た世界は、他人が見ている世界と異なり、つまり人間の数分の「これ」は存在する。世界は一つだが「これ」は一つでない。物事において真実はたった一つ。事実は人の数分あるわけでそれと同じではなかろうか。つまりは確実なのは「私」が存在するという事だけであると私は思う。

結論として考えた事は、連続性の実態を明らかにするという事は、夢の場合も同じでいつも後からで、かつ一部だけではないか。我々は我々人間をすべて解明する事はできない。夢も「これは夢だった」と分かってもそれもまた夢である可能性は否定できないし、「夢かもしれない」と予め予想して疑ったとしても、結局覚めるまでは分からない。これはすべてにいえることで、人間は常に疑い、疑問を持ち、正しさだとか正解を探しているが、疑いというのは尽きる事がない。正しさも実は、時代や国や人や時間によって変化するのである。ただ不変な事は、「正しい」という概念だけなのかもしれないと思う。そのような結論を出してしまった以上、テキストやこのレポートの議論は無駄に思われるかもしれないが、そうでもない。テキストが起こり得ないような事を仮定しているようであったが、これを書くにあたり考えると、現実の問題や事柄への適応が十分可能な事に気付いたし、そのような現代問題の具体的な事例から、懐疑を進めていけば、解決の糸口は見つかるのではないかと思う。また、最初の段落で述べた私の存在に対する考察を少しながら進める事もできた。私の出した結論も現時点における結論であって、今後また変わっていくであろうと思う。そのため今出した結論は、あくまでも途中報告としておきたい。

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