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『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー考察』1

デカルトにおける「われ思う、ゆえに、われあり」の懐疑については、だいぶ頭を悩ませた記憶がある。大雑把に言えば、「私」という存在そのものについてである。私には多くの性質、特徴があり、それは誰しも同じ事だ。髪が黒い、背が高い、目が大きい等々の身体的特徴と、積極性がある、頑固、優しい等の精神的特徴の両方を兼ね揃えて「私」というものは存在している。

 

しかし、私の自覚している自分と、私の両親が思っている「私」は異なるであろうし、友人から見た「私」もそれぞれによって異なるのである。どれがほんとうの私なのか。私とは一体何を基準にして私となり存在しているのだろうかという事が疑問となった。

 

この疑問はテキストにおいて問題とされている事と通じる事があるのではないかと思う。デカルトは、私は何であると考えていたのかという事を、有能な欺き手である神を仮定し、その神が私を欺いているとしても、私は存在するという事は真であり、私は考える存在であるという事に気付き解釈するが、ここで私疑問となったのが考えている間のみ私は存在するという事は、考えていない時の私とは一体何者であろうかという事である。

 

当時の私なりの結論はというと、私は思考し、行為している間において自分は自分であると、自分は存在するのであると無意識においてでも自覚している間、私は存在し、自覚していない間は非存在的という、相反する性質を持った上で存在し、それゆえに身体的、精神的特徴も自分が自覚している点とそうでない点の両方があると考えた。その時はそうだと思い納得した結論であったが、今考えると反駁はいくらでもでき、愚かな結論であったと感じずにはいられない。また多くの課題を残している事にも気付いた。これについての考察は続くが、テキストを読み終え授業が終了した際に、解決の糸口が見つかるのではないかと期待を寄せているのは事実である。

 

それでは、今回のテキストである『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』の序章と第一章を考察していこうと思う。私が序章を読んでいてふと思い浮かんだのがクローン技術に関する問題である。クローン人間として私と似て生まれた存在は果たして私なのであろうか。実際のところ、私自身クローンについての詳しい知識は持っていないため、少し調べてみたところ、以下のような事が判明した。多くは科学技術省のホームページにおけるクローン技術に対する記事からの意見である事をここに明記しておく。大きな特徴としてクローン技術は、両性の関わりをなくして子を生み出すことを可能にした。人を含む哺乳類の子は、両親のそれぞれから何万種もの遺伝子を受け継いで生まれてくるが、どちらの遺伝子を受け継ぐかは偶然に決まるため、同じ親から生まれた子同士であっても異なった遺伝的特徴を持っている。また親と子でも、持っている遺伝的特徴は異なっているというのが現代の人間であり、過去に存在していた人間である。一方、クローン技術により同じ親から生み出された子同士は、ほとんど同じ遺伝的特徴を持つクローンとなる。

 

また、親と子もほとんど同じ遺伝的特徴を持つ場合もある。ただし、後天的影響により、全く同じように成長するという訳ではない。実際、クローン技術の人への適用は、医学や生物学の側面からだけでなく、人文社会的な側面からも検討する必要があるなど問題は多く存在している。科学技術省はクローン技術に関する問題点として、子孫への影響などの安全性、移植による問題、それと倫理問題として、第一に、人間を手段、道具として見なす事となり、第二に、生命誕生に関する日本人の基本的概念の逸脱に繋がるという事。第三にクローン人間と両性から生まれた人間との差別への懸念、第四には安全に成長する事への保証が出来ない事を挙げている。

 

私が感じたのは倫理的問題が本当にこの四点だけなのかという点で、問題がこのような内容であるならば、個人による考え方の違いという意見によって問題が問題ではなくなってしまう気がした。それはともかくクローン問題は序章におけるいくつかの状況と合致して考えられるのではなかろうか。クローン技術による規制が解かれ、クローン人間を作る事が可能になれば、自分のクローンを作る事によって死んだ後も遺伝的には同一の自分が生き続ける事となる。人格は後天的な影響によって異なってしまうため、心理的に本来の自分とクローンとが同一であるとはいえないかもしれない。

 

しかし遺伝的影響によって、少なからず性格の面においてもある程度は同一的側面を持つのではなかろか。遺伝的には私と同一の私が存在するなんて、あり得ないであろうと考えていたが、実際はすぐ近くに迫っているのであると思うと、このいくつか仮定の上で成り立っているテキストの状況も仮定ではなく、現実のものとして起こりうると思う。人間の想像力に現実が迫り来ている。またそうなった場合、私はそれを望むであろうか。どの状況を考えても、やはり私にと遺伝的に同一の私は、私であっても他人でしかない。私自身、楽をする為にクローン人間を用いる事を望む可能性も否定はできないが、しかしそれは私とは見なしておらず利用するだけのロボットのような存在である。私が私であるのは遺伝などとは関係がないのである。

 

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