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プラトン『国家』1

プラトンの『国家』。これは理想国家の在り方など国制について述べた国家論であると同時に、正義とは何かについても対話者と共に思索していく長編の対話編である。

 

そして「何であるか」を問うのに、善や幸福、魂と結びつけて対話を進行していく。これは『国家』やさまざまなプラトンの著書に見られる共通した特徴である。

 

それではその『国家』を読み進めながら、自分の中での国家論、正義観の確立をしていこう。

 

 

第一巻七章。

ここではシモニデスが正義について、それぞれの相手にふさわしいものを返し与えるのが正しいと主張する。私が疑問を感じたのは、332D「それでは、正義と呼ばれてしかるべきものは、そもそも何に対して、何を与える技術のことであるか?」というところで、ソクラテスは、ここより一貫性を持って、人間の生き方に関わる道徳上の事柄を「技術」としてとらえている。

 

しかしその通俗的な考えに異論を唱える意味も含めて、ソクラテスは正義を技術としてとらえてはいないと私は主張する。その理由としては、その幾行か前に「誰かがシモニデスに向かって、こうたずねたとする―『シモニデス、医術と呼ばれているものは、何に対して、どのような<借りているもの>を、すなわち、本来それに<ふさわしいもの>として何を、与える技術のことなのでしょうか?』とある。この「たずねたとする」という質問内容に関連、対応して正義を技術として、質問したのではないかと思うのである。だからこれはソクラテスの本心ではないと思う。

 

第二の理由として、こうもいえると思う。「それでは、不正と呼ばれてしかるべきものは、そもそも何に対して、何を与える技術のことであるか?」と。そうすると、技術は少なくとも、正義と不正の二極面からとらえられるのであって、完全に正義イコール技術とはいえなくなってしまうから。また違和感を覚えたのは、ソクラテスが対話相手に対しては、何かと反発を示すのに、自分の意見だからという事であるのであろうか、正義を技術とするという点に関しては、何も問いただそうとしていない。これが対話相手の意見だとしたら、真っ先につっかかって異を唱えるであろう。

 

やはりいつものソクラテスが感じられなかったし、完全に正義イコール技術ではない気がする。技術を正義の一部として捉えているにしても、ソクラテスの「正義と呼ばれてしかるべきものは、そもそも何に対して、何を与える技術のことであるか?」という言い方では、それが伝わらない。

 

次にここは私が発表した箇所でもあるが、第一巻の二十三章352Cの「彼らの内には何ほどかの<正義>が存在していたことは明らかであり、」という点。ここでは、不正な人同士が共同で行動を起こした場合、不和と仲違いのため共同行為を不可能にさせる。もし可能にさせたというなら、彼らの中に正義が在していたというのである。しかし不正を働くための正義は正義と呼べるのであろうか。最終目的が不正としたら、そのためのすべての行為は、不正のための見せかけに過ぎず、不正なのではないかと思う。いくら行為自体が正義だと思われるような行為だとしても、それがほんとうの意味での正義でなかったら意味はない。最終目的としての不正以外、誰にも害を及ぼさなくとも、不正を働く本人は途中行為が不正だと分かっているのだし、不正のための正義は正義ではないと思う。では逆に正義のための不正はどうであろうか。

 

やはり私にはこれも不正であるとしか考えられない。結果的には正義であっても、不正を含んだ正義では誰も喜ばないし、しっくりいくものではない。何を目指し、途中どれだけ正義を含んでも、ほんの少し、どれだけ少しでも不正をはらんでしまったら、それは全て不正となってしまうのだ。そしてこれほどまで不正という過ちは大きいものである事を私達はもっと強く認識すべきであると感じた。

 

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