スポンサーリンク


ピタゴラス

(1)ピタゴラス派の人々について

私は以前から輪廻転生や前世、生まれ変わりや魂などに興味、関心を強く持っていて、大学の勉強とは別に学んでいる。たとえば何かの病気の原因となった心の傷や恐怖を探り、取り除くため、退行催眠によってその原因のある時期の記憶に戻る。そこでたいていの人は幼少期の記憶に戻るのだが、もっと昔の記憶、すなわち前世、過去世に戻るという事が起こりかねないと思うのである。

 

ピタゴラス派の人々に興味を持ったのは、彼らもまた輪廻転生について語っているという事。またそんな彼らが、それとは全く別の事象と思われる幾何学や音階論などについても言及しているという点に非常に興味を惹かれたからである。

 

 

彼らはオルフェウス教からの影響を強く受けている、秘儀の出家集団で、魂の不死・転生を説き、人間は他の動物にも転生すると述べた。また前世に記憶した事は、現世にまで持っているという事も特徴的な思想の一つである。人間は肉体と魂とで人間となり、肉体から魂を開放できるのは人間だけと考えていた。魂を開放するには浄化(カタルシス)を必要とし、ここから美しい秩序を持ったものの探求が始まり、幾何学や音階論が生まれたという。

 

ピタゴラス派の人々は、万物は数によって理解する事ができるという考えのもと、さまざまな発見をした。数学的に和音の理解に努め、宇宙も数学的に理解する事によって、自分たち自身も無限なる不死の状態になれると考えたのであった。そして水や火の中ではなく数の中に、存在する事物の類似物を見出した。宇宙の調和は数すなわち整数であるとし、それ故、整数比で表せない比、現在でいう無理数を発見した。また音は調和を持っていて、弦の長さの比が整数比の時、協和音を奏でるという事の発見により、宇宙も整数比の美しい秩序を持っているのだと考え、宇宙をコスモスとして捉えた。それから、天体も宇宙の現れであるから音であると考えた。音階についても、絃の長さの簡単な整数比で表される事を発見した。

 

考えてみると、この発見は私達にとって大きな発見である。この発見がなかったら、モーツアルトやシューベルト、メンデルスゾーンなどのクラシック音楽も存在しないし、現代のポップ音楽もなくなる。このピタゴラス派の人々の音階の発見がなかったら、私達の文化は違った形になっているだろう。私もこの音楽にピアノという形で触れている一人として、これは本当に偉大な発見であると深く感じる。同時に、ピタゴラス派の人々は、数の持っている意味についても考え、偶数と奇数を区別し、1を理性 2を女(無限) 3を男(有限) 4を正義 5を結婚(2と3の和) 6を命 7を幸運 8を不動 9を同一性 10を完全といったような形で表した。完全数の研究により、テトラクテュスという正三角形の図形の発見もした。そしてこの発見や、完全数へのこだわりは、のちの天文学の考察にも役に立つ事となる。これらは現代にも多く通じているといえよう。そして我々も知っている直角三角形の斜辺の上に立つ正方形の面積は、他の二辺の上に立つ正方形の面積に等しいという三平方(ピタゴラス)の定理も彼らの発見である。

 

しかし上述したさまざまな発見や思想はピタゴラス自身の考えであったのか、ピタゴラス派の、なかでもピロラオス(前470頃―390頃)という思想家の考えであったのかという問題は、いまだ解決されていない。ピロラオスは、ピタゴラス派の教説を広めた人で、限と無限の原理に関する教説と調和に関する教説は、彼の考えである可能性が高い。しかし具体的な資料があまり残されていない以上、実際この問題は推量にならざるを得ないのが現在の状況である。

 

それから彼ら、ピタゴラス派にはさまざまな戒律があった。たとえば心臓を食べるべからず。悲しみで自分を苦しめてはいけないということ。大通りを歩くべからず。これは多数者の意見に従うことを禁じ、少数の教養ある人の考えに従えということ。秤りを踏み越えるべからず。人より余計に取ろうとするなということ。この他にもさまざまな戒律があり、ここに載せたものはアリストテレス解釈による。

 

それから食べ物に関するタブーの中で代表的なのは、豆を食する事の禁止であった。後にアリストテレスが五つの理由を挙げている。恥部に似、またハデスの扉に似ている。身体に有害。宇宙全体の形に似ている。抽選に使われるので、役人を選ぶ寡頭制にかかわるから。以上によって豆は禁止されていたわけである。そしてこの話の続きとして、次のような一説がある。ピタゴラス派への入門を断られた男、もしくは、ピュタゴラスによる僭主制を恐れた地元住民が、ピュタゴラス派の集会所に放火した。ピュタゴラスと妻は逃げて、豆畑にまで来てしまった。妻はそこに隠れようと勧めたが、彼は「豆を踏みつけて逃げるより、ここで捕まったほうがましだ。」と言って、立ち止まったところをとらえられ、喉を切られて死んだという。豆を禁止したゆえの結末であるが、これは彼の本能だったのか。もどかしさを感じずにはいられなかった。

 

 

(2)「初期ギリシア哲学」とは何であったか

私にとって初期ギリシア哲学とは何であろう。初期とは紀元前六世紀の初頭からを指す。タレスから始まった本当に多くの哲学者の思想が混在した初期ギリシア哲学をいかなるものかと、簡単に論じる事はできない。しかしただ一つ言えるのは、すべての哲学の始まりであるという事である。これは『哲学の原風景』を読んでいても感じるし、最初の頃の授業では、ここから始まったのだという事をひしひしと感じていたものでした。

 

そして、すべての哲学の始まりであると同時に、それは私の中での哲学の始まりでもある。そして誰もが哲学をする時、その基礎に初期ギリシア哲学はあると思う。哲学の祖とされる七賢人の一人で「万物の原理は水である」とした哲学の始者タレスにしても、「万物の原理は空気である」としたアナクシメネスや、その他の人にしても彼らのこの考えが一つでもなかったら、この現代に常としてある常識が常識でなかった。しかし、彼らが疑問に思い、考え耽った問いは今だに解決されていないといっても過言ではない。哲学は答えが一つではないと思うし、本当に正しい答えというのは何なのか、実際に、これが正しい答えと言い切れるものは存在するのかと考えていくと、過去のさまざまな哲学者達が残した問いは解決されていない方が自然である気もする。そして哲学は過去から現在まで、問いが共通しているというのが、とても魅力的な特徴であると思った。

 

広告を非表示にする
このホームページに関するお問合せは下記へお願いします。
Eメール:philosophy_diary@yahoo.co.jp