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デカルト『省察 情念論』

デカルトの誤謬論。まずはこれについて考察していきたいと思う。私は、神によって与えられた能力を正しく用い、判断をしている間は誤ることがない。なぜなら神は私を欺かないから。しかし、私が誤り得るのはなぜか。ここに問題がある。私が誤り得る理由としては、私を神と無との中間者として捉え、無である存在において判断を下すためとする。そしてその誤謬を否定ではなく、認識の欠如としている。デカルトは認識のためには悟性と意志が必要であるとし、悟性は判断を下す材料であって、本来の意味での誤謬は見いだされないと述べている。意志の方は無限であるために、誤謬に陥ってしまうというのである。そしてその誤謬を回避するためには、何が真であるかをよく認知していない間は、判断を下す事を控える事が重要である。これがデカルトの誤謬に対する考えである。

 

 

私がこの第四省察の誤謬を選んだのは、興味があったというよりは、デカルトの考えに同意できなかったからと言える。まず神の存在について、私は否定的には捉えていないが、それでも確証的に存在を肯定する事はできない。なので、神によって与えられた能力を正しく用い、判断をしている間は誤る事はないなどとは言えないと思う。それは神の存在を完全に肯定しているとはいえない人すべてに言える事である。また能力を正しく用いるとはどういう事であろう。誰にとって正しいのか。自分にとってなのか。デカルトのいう神にとってなのか。自分にとっての正しさを追い求める事が、デカルトのいう神にとっての正しさにも繋がるのか。万人にとっての正しさか。共通の正しさなんてあるのであろうか。私には理想でしかないと思う。誤謬を認識の欠如としている点は同意できるが、デカルトの指す誤謬とは、誤謬全体か。結果として出てくる誤謬か。何か間違いを犯しても、その間違いが良い方向へ転じる事もあるし、失敗は成功のもとなどという言葉も存在するわけだし、一概に誤謬といっても、すべてを否定的に捉える必要はないと私は思う。デカルトはここで誤謬と自由意志についてを明らかにする事で、神の存在論的証明をより確実なものするためにも神への誤った判断を防ぎたかったのではないか。もう少し誤謬に関しての考えを明確に規定して欲しかった。

 

次に第二省察で、デカルトは何か確実なものをたった一つでよいので見つけ、認識しようと模索する。そしてデカルトは、かの有名な「cogito ergo sum 我思う故に我在り」の命題に達する。意識する限りにおいて私は成立し、必然的に真である。  私はよく私、一柳利恵とは一体何だろうと考える。蜜蝋の話と似通っているが、多分母親の捉えている私と、父親が捉えている私も、ある友達が捉えている私も、私自身が捉えている私も皆違うと思う。それぞれにとって違う一柳利恵がいるのにも関わらず、すべてが私である。例えばある友達が私の事を、とても消極的な人と捉えていたのに、ある時積極的な一面を見て、消極的ではないのだと思う事があるとする。それは全く反対の性質であるにも関わらず、捉えている実体自体、私は私である事は変わらない。では、外見はどうだろう。外見も私を構成している要素だと考えてみたが、やはり外見が変わったとしても私が私である事に変わりはない。美容整形などと大それた例を挙げなくても、幼少期と今で多少顔は変化する。性格や中身などの心と外見すべてで、周りの人達が私を捉えているのかなと思っても、どれがほんとうの性格なのか。すべてがほんとうなのだろうか。そう考えていくと、そもそも心なんてあるかなと思ったりして、存在するってどういう事なのだろうとますます深みに埋まってしまいます。そんな中で知ったデカルトの我思う故に我在りの命題には、衝撃が走りました。デカルトのこの命題を見出した時の、驚きや感動は計り知れなかったと思う。しかし私自身この命題を知っているといっても、漠然と知っているだけで、授業で学んでも完全に理解したとは言い切れないので、もう一度自分で学んでみようと思いました。

 

デカルトはまず、見るものすべてを偽とし、真であるのは、確実なものはないという事のみとし、この世には、精神や物体、そして私自身もないと自らを説得する。しかしここには矛盾が生じる。私自身をないとしたら、説得するという行為自体が成立不可能になるという事に気付いたのだ。こうして自らに説得した自分は存在するという事に気付き、我在りという事を証明する。次に私は何であると考えていたのかを立ち返って考察する。そして有能な欺き手である神を仮定し、その神が私を欺いているとしても、私は存在するという事は真であり、かつ私は考える存在であるという事に気付く。考えている間のみ私は存在するという事は考えていない時の私とは何者で、存在しないのであろうか。つまり私は存在と非存在という相反する、両方の性質を兼ね揃えたものなのであろうか。とすると、私の中に全く反対の性質、例えば先ほども述べた積極性と消極性など、があってもおかしくない。その辺りに疑問を残しつつも、このcogito ergo sumという命題は私の自己存在に対するもどかしさを少し解消してくれた。そして今後、自己存在を考える上で、デカルトは私に大きな影響を与える事を確信している。

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