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「『大学・中庸』考察」2

次は第二章一節にいこう。自分をごまかさない事、例えば、悪い事は悪いとし、善い事は善いとして追求する。これが自分の意念を誠実にする事だとある。これは当たり前の事である。しかし現代問題となっているのは、何が悪く、何が正しいかの判断をしにくくなっているといった事ではないか。

 

今まででは考えられなかった犯罪の形式が増え、「信じられない」といった事が当たり前と化していく。この恐怖は計り知れない。また善い事を善いと認める事ほど難しい事はないのではないか。国に貢献したなどという大きな功績であれば称えられる事は間違いないだろう。しかし自分が自分を認める事も、また身近な人が行った善い事も素直に認めるといった世の中にはなっていないし、それをし難くなっている。自分で自分をごまかさない事ほど単純で、難しい事はない。『大学』が書かれた時代には、今ほど難しくはなかったのかもしれないが、現代ではとても難しい無理難題といえる。また、第二章二節では、自分自身に正直にあった人の中で王、日本でいう総理大臣をほめている。市民は王が楽しみとした事を楽しみ、王が利益とした事を利益として受け収め、よく国が治まったという。こちらも現代に転換すると、こううまくはいっていない。まず君主自身が正直であるか。例えば自衛隊のサマワ派遣をみても、アメリカに従っているといった形が手にとるように分かる。そこに正直な気持ちというのはあるのだろうか。また、君主が利益とした事を我々も利益としているだろうか。実際はそれに反対しているのが現状といえる。理想としての君主の考え、行動に全市民が従うといった事は本当に難しく実現しえるかどうか疑問だ。そこですべき事の一つと思われるのが、『大学』第四章に出てくる好きな相手でもその欠点を、嫌いな相手でもその長所をわきまえ、相手を認めるという事が重要であると思う。この事も難しい事だが、君主の利益を利益として受け止めたいのであれば、まずこちらを念頭に置けば、実現し易いと考えられる。一人ひとりの人間をみても言える事で、相手の悪いところばかりに目をやるのではなく、長所に目を向ける事が、より良い人間関係を築く上で大切な事だと考えられる。君主の方も、第六章の一節を参考にし、民の心を推しはかっていく事が必要だ。もちろん細かく一人ずつの意見を尊重する事は難しいが、そのための努力の姿勢を指す事は必要だ。『大学』のこれ以降にも君主としてすべき事がたくさん書かれているが、まさにそうだと思う。すべてを実行できれば、理想の国家、大学教育ができる事間違いない。しかしそれを行うのは簡単そうで、非常に困難、単純そうで、複雑といった印象を受けた。本文中いくつも、「善」や「最高善」などといった言葉を見受けた。これはアリストテレスの『二コマコス倫理学』にも共通して出てくる言葉だ。そしてこれらはアリストテレスのいうように、どれも結果的には「幸福」を目指しているのではないかと思った。私達も「善」などという言葉を使わず、形は異なっても、何かしらの幸福を目指していると思う。国や時代は違っても、いつの時も目標とするものはどれも共通しているといった事は、とてもすごい事だと思う。逆をいえば、いつまで経っても、人は幸福の実体を掴めず、日々欲求を解消する事に追われ、幸福を手にしていない、もしくは幸福を手にしても、それが幸福かどうかは分からないという事でもあるが。 

 

『大学』に関する論述が少し長くなってしまったが、『中庸』に移る事にしよう。この中庸についてもアリストテレスは言及している。ここでもまた、国や時代によらず、人間には共通して考えるべきものがあるという事が読み取れる。「中庸」は「偏りのない平常で程のよい中正の徳」で、これは実践的な徳行であるとの注がある。本文中にも多少の説明はあるが、「中庸」に関しての説明が不十分な気がしてならない。『中庸』が書かれた時代には、「中庸」という言葉が当たり前に使われていたのかもしれないし、現在でも在る言葉である。しかし私が理解するには説明が不十分である。それは『大学・中庸』を通して言える事であり、この書を読んでいて一番感じた事である。それは『大学・中庸』を取り上げるより前は、授業でプラトンの『国家』が取り上げられ、言葉一つひとつの意味を追求していたせいもあるのかもしれないが。朱子や孔子などとソクラテスが対話をしていたらどうなっていたであろうか。中国の人々は言葉に詰まってしまうのではないかと思う。「中庸」だけでなく、「正しい道」、「徳」などどれも曖昧で根本からの理解は難しい。内容的にはその事を省けば、とても当たり前の事を言っているのだが、当たり前の事ほど、忘れやすく、実践しにくいので、こうして書としてしたためるのはとても良い事だと思う。それから、『中庸』第八章で、五つの道の事が記されているが、これは孟子のいう人倫五常と一致する内容であると思われる。「君と臣との間の道」は「君臣有義」、「父と子との間の道」は「父子有親」といった具合に、ほぼ同一の内容が見られる。例えば、「父子有親」では父子をならしめる根底は「親」であり、「親」がなければ父子は成立しないのだ。そのような存在根底についての説明もまた、「道」という言葉で済まされ説明がない。『中庸』解説には、『中庸』と『孟子』では、『中庸』の方により発展した形が見られるとあるが、私にはそう思えない。発展したというよりは、むしろ退化した形というか端折り過ぎであると思う。そこが『中庸』のもっとも不満な点といえる。分かりやすく簡略化を図るのが悪い事とは言わないが、逆に分かりにくくしてしまうという事を忘れずにいるべきだ。それは私達、現代人にも言える事であるので、言葉を簡略化し過ぎずに、古いものを大事にしたい。それがこの著書から学んだ一番大切な事である。

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